
恋を。
していたから。
「真夜中の幻想T」
桜の舞う、春にしては少し蒸し暑い深夜。
俺は何故だか学校にいる。
もちろん理由はちゃんとある。
春休みが終わる前日だというのに宿題を忘れたことに気が付いたのが今夜だったのだ。
「我ながら馬鹿だな………」
一人でそう呟いて、忍び込んだ北校舎一階の窓を閉める。
ひそかに仲間内で鍵を壊しておいて助かった。
今後ともこういうものは作っておくことにしよう。
夜の校舎は昼のものとは性質そのものが変わる。
昼が喧騒と雑談と様々な感情でできているのなら、
夜は静寂と無言と無感情だけで出来ている。
暗い色の染まった廊下は人によっては恐怖を覚えるのだろうが
俺にとってはそう感じない。
何か様々な色に汚された昼間とは違い、
夜中は静かな闇一色に満たされていて
不思議と―――気分がいい。
コツコツと音を反響させながら俺は自分の教室に急ぐ。
廊下に張ってある薬物防止のポスターも、
美術部の誰かが書いたへたくそな絵も、
気の早い部員募集の張り紙も、
異様に夜の校舎には似合っている。
大体の人間が知らない、あるいは気づいていないことだが
世界とはどこかしら歪んでいるものだ。
完全なものなど世界の中にはありはしない。
どこか壊れた部分が会って初めて均整が取れるのだ。
何気なく生活しているこの学校も、
人気というものが無くなれば俺だけ異質な空間になる。
俺はそのどこか壊れた部分が好きだった。
物でも―――人でも。
多少、おかしなところのあったほうが面白みのある奴だと思うし、
逆に総てが普通の奴は信用が出来なかった。
それは見えない部分が異常だという保証に他ならないから。
思考をしながら静かに階段を上っていく。
三階にある教室まで行くのは少々疲れた。
いつものように教室の扉を開けて中に入る、
ちがうのは教室には誰もいないということだ。
そこはまるで持ち主を無くしたスクラップ置き場の廃車みたいに
もの寂しい雰囲気に包まれていた。
窓側の一番最後の席、そこが俺の席だ。
「やれやれ、あったか………」
お目当てのものを見つけても余り俺の気持は晴れなかった。
今夜はこいつを片付けるために徹夜になるだろうからだ。
わざわざ忍び込んでまでやることも無いと思うがなにせ馬鹿な教師に
うるさく言われるのも癪だ。
わざわざ生徒を苦しめるために大量の宿題を出すような馬鹿にはすまし顔で
それを提出してやるのが一番気分が良い。
最も、こんなことを考える俺も相当捻くれていて、
馬鹿のことなど言えたものではないだろうが。
「さぁて、帰りますか………。家にうるさい奴も待っていることだしな」
家を出るときに『早く帰ってきなさいよ!』とくぎをさしてきた、
いとこの顔を思い出して苦笑する。
帰ろうと廊下に出てふと足を止めた。
窓の外には流石に良い景色が見える。
暗闇の中に月に歯向かう人工の光が散りばめられている。
その光景は何故だか酷く心を揺さぶる。
「………家の二階とはちがうもんだな」
時折ベランダから眺める町々と比べて少々関心する。
「やっぱ高いほうがいいもんだなぁ」
窓の外を眺める。
そしてこの学校にはもっと高いところがあるのを思い出した。
数秒間、考えた後にそこに向かうべく足を動かす。
その時ふとある言葉を思い出して
「馬鹿と煙は高いところが好きってか………」
自分を笑った。
○
少々、呆然とした後、少年は先ほど自分が思ったことを考えた。
『世界とはどこかしら歪んでいるものだ―――』と。
世界、とはなにであろうか?
それは総てだろう。
個人も、社会も、国も、生物も、それは世界だ。
だから学校という世界も歪みがある。
それは―――今目の前にある光景なのだろうか?
春の霧がそこにはあった。
月の光がそこにはあった。
夜の闇がそこにはあった。
そして、そこに少女がいた。
顔を天に向けているために彼女の表情は見えない。
さらさらとゆれる黒髪は闇に溶けて長さを見せない。
ふわりとしたこの学校の制服は異質な物に見える。
屋上の扉―――そこを開ければ世界は歪んでいた。
この世界に存在してはならないほどの美が、そこに歪んでいた。
「忘れ物………したの?」
微かな、それでいて何処までも響いていきそうな矛盾した声が少年に届く。
少年は、眼の目の光景にまだ呆けていたがハッとしてその問いかけに答える。
「あ、ああ。そんなところだ」
「そう………」
彼女は少年の返答に優しげに頷く。
スッと静かな衣擦れの音を立てて彼女は振り向いた。
柔らかな微笑を携えながら。
「よかったね」
何が良かったのか?
そんなことなど少年は考える余地はなかった。
そのときには少年。
すでに。
この少女に。
恋を。
していたから。